緯度観測所とZ項

Z項とは

1. 地軸の運動

図1. 1899年12月から水沢臨時緯度観測所で所長の重責を担った木村榮

地球の自転軸(地軸)は、私たちが夜空の星を眺めたときに、星々がゆっくりと回る回転の中心方向を示しています。この回転の中心は天の北極にも南極にもある訳ですが、その方向そのものが星々のある天空に対してゆっくり(万年の時間で)、またあるリズムで動いてゆきます(今からおよそ1万3千年たつと、天の北極は、今は北極から大きく離れていること座(はたおり座)の近くに来ますし、小さな振動を繰り返しています)。これを「才差・章動」と言いますが、江戸時代の後期に日本全国の測量を初めて行った伊能忠敬はすでにこのことを知っていたと言います。彼は北極星の見える方向が年と共に移動することを西洋の天文学を用いて補正して、回転の中心方向である天の極の高さから各地の緯度を決めました。後に開始されたほぼ同じ緯度の世界6箇所での共同緯度観測事業は、この国際的な精密観測版と言ってもいいかも知れません。

国際緯度観測事業が開始されたのは地球の緯度が変わることが数学者のオイラーによって予言されていたからでした。

緯度が変るのは、先に述べた地軸の天空に対する動き(歳差・章動)とは全く異なって、地軸が「地球そのものに対して揺れること」が原因で極運動と呼ばれます。この極を動かす原因は、地上で重い物が移動したり、内部が変形したりすることによりますが、当時はそのことについてまだ何も分かっていませんでした。

2. 国際観測で水沢の観測は50点?

1899年、国際協力により開始された緯度観測の目的は、この極運動を確かめてその実態を明らかにすることでした。精密な天文観測からそれを求める訳ですが、実際は意外と複雑でした。極運動は極軸の位置ですから、北極での水平面上のx軸とy軸のグラフであらわすことができます。確かに共同観測から極運動は求まりましたが、単純な極運動だけを含むものではありませんでした。

ゲイザーズバーグ (GAI) N 39:08:12 W 77:11:55 アメリカ合衆国
シンシナティ (CIN) N 39:08:3 W 84:25:4 アメリカ合衆国
ユカイア (UKI) N 39:08:14 W 123:12:42 アメリカ合衆国
水沢 (MIZ) N 39:08:1 E 141:07:9 奥州市水沢区
チャルジュイ (TSC) N 39:08:0 E 63:29 現トルクメニスタン
カルロフォルテ (CAR) N 39:08:13 E 8:18:41 イタリア
表1. 国際緯度観測事業が開始された6観測所の位置
図2. 眼視天頂儀の前に立つ木村榮と、その恩師であった田中館愛橘博士

観測が始まって1年余が過ぎた日、水沢の観測は50点で、不合格との手紙が国際観測事業の中央局(ドイツのボン)から送られてきました。観測は十分注意して進めたはずですが、不合格となってしまったのです。苦境に立たされた木村博士は、恩師の田中館博士の助言を仰ぎ、観測方法等の見直しを行いました。しかし、不備な点は見つかりません。世界が言うほど水沢の観測は悪い筈はないのです。ある日、送られてきたデータから各観測所の残差(図3参照)を見直してみると、水沢だけでなく他の観測所にも共通な「おかしな変化」があることに気が付きます。それは図3に見られるように、冬になると6か所の観測が、みな共通して緯度が大きくなり、逆に夏になると小さくなるという現象でした。変化の大きさは角度で0.03秒という小さな量でしたが、観測精度からみて決して見過ごすことのできないものでした。

3. 逆転の発想とZ項の発見

このような、すべての観測点で同じように緯度が変化するという現象は、極運動(先に述べた地軸の運動)では説明できません。すべての観測点が冬になると約1m北極に近づき、夏になると逆に北極から約1m遠ざかるということですから、簡単な理屈では説明できないと思われました。

*クリックでグラフを大きく表示します。

図3. 緯度変化の方程式をx,yだけで解いた時の各観測所の観測値の残差 (横軸は1900年からの年数、縦軸は角度の秒、以下の図も同じ)
図3. 緯度変化の方程式をx,yだけで解いた時の各観測所の観測値の残差 (横軸は1900年からの年数、縦軸は角度の秒、以下の図も同じ)
図4. Kimura (1902) によって求められた x, y, z の値
図4. Kimura (1902) によって求められた x, y, z の値
図5. x, y に z を未知数に加えて方程式を解いた時の各観測所の観測値の残差
図5. x, y に z を未知数に加えて方程式を解いた時の各観測所の観測値の残差

ともかく、原因がよく分からないこの奇妙な現象を表すために、木村は緯度変化による極運動を解く(地表面に対する自転軸の位置を求める)方程式の中の未知数x,yに加えて新しくzを加えてみました。すると妙な年周変化は見事にZで表され(図4参照)、観測所ごとのばらつき(残差)が小さくなりました(図5参照;図3と比較して変化のばらつきが小さくなっています)。もちろん水沢の観測値も同様です。この項の発見は世界を驚かし、その後、正式に「Z項」と呼ばれるようになりました。これが1902年の木村榮によるZ項の発見でした。

4. Z項の解明から世界最先端の天文地球科学へ

Z項は、はじめのころ、大気や地面の傾斜の影響などによるものと考えられていましたが、やはり詳細は不明でした。Z項の原因が分かるまで、半世紀以上にわたって多くの天文学者・地球物理学者を悩ませます。残念ながらZ項発見者の木村自身は、原因がわかる前の1943年に死去しました。

しかし、この間、またその後の後継者たちも、Z項の原因を知るために、努力を続けました。まず、木村博士が取り組んだのは、気象観測、そして地球内部を知る地震と重力の観測でした。その後には上空の風の観測もなされていることから、博士の理解の中には、Zは「太陽の位置(黄経)や星の東西方向の座標(赤経)に関連する現象ではないか」との直感が働いていたことが伺えます。この考えは、最初は余り根拠のないものに思われた節もありますが、後になって正しかったことが証明されます。

1970年になって、後輩の研究者、若生康二郎によってその原因がつきとめられました。それは当時、地軸の天空に対する運動である才差・章動(原因は太陽と月の引力が地球の形等に作用する効果で、コマの首ふり運動と同じ)の予測値として、地球全体を堅い物(固体)と見て計算していましたが、実際の地球の深部は鉄などのとけた流体(流体核)があり、その流れの効果等が重大な影響を与えていたためでした。これは、専門的な言葉になりますが、「半年周期の章動項に大きな誤差が生まれ、その誤差が各観測主に共通な1年周期の見かけの緯度変化」として観測されるからでした。この半年周期の章動項の誤差は、まさに、太陽の位置(黄経)と星の東西方向の座標(赤経)の関数として表せる」ものでありました。

Z項の原因をより確かなものにする努力も多岐に亘って進められました。大気と海洋の世界のデータの収集とそれらの運動による地球回転への影響の追及、月・太陽による潮汐力に対する固体地球および流体核応答の理論的・実験的調査、などなどです。これらの中で途中で終わったものもありますが、世界の最先端への研究であろうとしたことは確かだと思います。

水沢で解き明かした地球のなぞ

それは力学的には重大な意味を持ち、流体核が地球の自転周期(約24時間)よりも約7分短いところに固有の周期をもつこと(この周期は主としてマントルと流体核の境界の大きな形によって決る)、そしてこの周期に近い変化をもつ外部の力が加われば、それに共鳴して流体核が大きく振動し、地軸も揺れることを示すものでした。この外からの力として主に働いていたのは、この周期に近いところにある太陽による潮汐成分φ1(日周潮汐の1成分:地球に対して平均太陽時で約23時48分16秒の潮汐を起す)でした。図6はその様子を描いたもので、地球に固定した小さい円錐体が天空に固定された大きな円錐に内接して回りながら南から西に半年周期で回転して行きます。流体核の共鳴による半年周章動への影響が、Z項の原因だったとする長年のなぞの解明は、世界の天文学および地球科学の研究に大きなインパクトを与えました。

図6. 太陽の引力で引き起こされる地軸の天空に対する半年周期の運動 (半年周章動) と地球の自転の様子
図6. 太陽の引力で引き起こされる地軸の天空に対する半年周期の運動 (半年周章動) と地球の自転の様子 *クリックで大きな図を表示します。

先に、Z項の振幅を0.03秒角と述べました。これは自然現象としてどうでもいいと思えるほど微小に見えますが、千分の1秒、万分の1秒角の天体運動から見ればとても大きな変化で、この精度が無ければ、地球の中も見えず、遠い天体の動きも分からないのです。その意味で、正確に知る必要があるのです。

ところで、半年周期の現象の誤りが、どうして周期の異なる1年周期のZ項に化けてしまったのか、不思議に思われるかも知れません。それは星の観測は夜のある一定時刻に行うので、半年周期の現象が1年周期の現象に見えた、ということです。もし、昼間も緯度変化の観測が可能だったら、Z項の原因はずっと早くに分かっていたかも知れません。

このZ項の原因は、江刺地球潮汐観測施設での地球潮汐観測から見られる地球の流体核の効果や、また最新の計測技術であるVLBI(超長基線電波干渉計)や超伝導重力計による地球の揺れの観測からでも確かめられました。今日では、これらの研究は更に発展し、地球のマントルと核の境界の形と力学的結合、核の物質の流れやすさ、また地球の長期の内部変化の究明などへと移って来ています。


☆もっと視覚的でわかりやすい説明が奥州遊学館のエントランスルームで動画「Z項ってなに?」としてご覧になれますので、覗いていただければよろしいかと思います。

参考資料集

☆Z項についての視覚的な説明は、奥州宇宙遊学館のエントランスルームで動画「Z項ってなに?」としてご覧いただけます。

「Z項ってなんだろう」DVDより

地球のマントルと流体核:動画「Z項ってなに?」より

 

PDF資料(1) 緯度観測所と国立天文台

奥州市水沢に世界の共同観測所として緯度観測所が設置されたのは1899年のことでした。1880年代に発見された極運動(地球回転の乱れの一側面)の詳細を解明するため、国際測地学協会が「国際緯度観測事業」として、世界各地の北緯39度8分上の6か所に観測所を設置したのです。日本では1899年(明治32年)岩手県水沢市(現奥州市)に文部省所轄研究所として「臨時緯度観測所」を発足させたのでした。初代所長は木村榮(ひさし)でした。木村は東京帝国大学の星学科で天文学を学び、特に星を用いて緯度を決定する手法を身に着けます。また大学を卒業後も大学院に進学し、震災予防調査会の下で田中館愛橘教授に学び地磁気測量に従事します。また1895年には嘱託として『緯度変化観測方』となり観測を行っていました。 (大江昌嗣 記/2016.6.25)

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PDF資料(2) 緯度観測所の空

「緯度観測所」。現在の国立天文台水沢観測所です。中高年の人なら、水沢市民も近隣の人たちも、緯度観測所といって知らない人はいませんでした。観測所ができたのは、1899(明治32)年。世界共同の緯度観測が開始され、岩手県水沢もその一つ。国際的な観測所の全体的な配置を考えた上での設置であり、「北緯39度8分」という緯度が最初にあった訳ではありません。 (大江昌嗣 記/2016.6.25)

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PDF資料(3) 宮沢賢治が訪れたころの緯度観測所

当時の記録映像(1921~’23頃)の映像から、宮沢賢治が見たであろう緯度観測所の姿をご紹介します。 (大江昌嗣 記/2016.6.25)

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PDF資料(4) 宮沢賢治作品と緯度観測所

宮澤賢治は花巻から緯度観測所を何度か訪ねています。賢治は新式の観測に特に強い関心を持っていたようです。 (大江昌嗣 記/2016.6.25)

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PDF資料(5) 宮沢賢治の大気循環への着想と緯度観測所の観測

宮沢賢治は、童話「風野又三郎」で、「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。」と又三郎に言わせる。 東北にしばしば冷害をもたらした風であるが、風は日本だけのものではなく、地球を循環すること、また風には吹く法則があることを伝えようとしている。 (大江昌嗣 記/2016.6.25)

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