星の記憶 ―「緯度観測100年」誌より―

ベロリでがす

緯度観測所の建設に先だって、その予定地確認のため木村先生らが来た。

当時は1軒もなかった現在の台地で、「この辺は、どのくらい利用できますか」との質問に、当時の水沢町長は「この辺、ベロリでがす」(この辺一帯です)と答えた。
木村先生はびっくりして「この辺はベルリンですか。水沢にもベルリンがあるのですか」と聞かれたので皆で大笑いしたとか。

この有名なエピソードは、識者のエッセイや挨拶にも何度か登場している。

田中舘愛橘博士の偉業と調査報告書

国際緯度観測所の設置の件を明治29(1896)年7月の閣議で承認した政府は、万国測地学協会から補助を受け、明治27年から震災予防調査会委員となっていた東京帝国大学教授・田中舘愛橘を木村栄とともに明治30(1897)年の秋、水沢の緯度観測所用地の選定調査にあたらせた。

その調査の報告書「日本における国際緯度変化観測事業の観測所選定報告書(田中舘愛橘、1898)」はドイツ語で書かれており、内容は北上川谷における水沢周辺の地形、地質構造、水、植物および住居の分布、社会環境、衛星状態、地震についての自然状態、鉄道による土地微動、気象状態、20世紀における環境予測までも含む広範なものであった。調査報告書は、水沢が観測所設置に好適地であることを結論とした。

観測所周辺の地図作製は、陸軍参謀本部陸地測量部によって行われ、その地図も報告書に付けられた。この調査での水沢の天文緯度を観測決定したのは、田中舘愛橘と木村榮であった。

平成11(1999)年9月18日、岩手県北の二戸市にオープンした「二戸市シビックセンター」に、田中舘愛橘記念科学館が開館された。田中舘博士は二戸市福岡、南部藩士の家の出身であった。館内では、日本物理学の創始者としての純粋物理学のほか、重力・地磁気・地震・測地・度量衡・航空、そしてローマ表記と、次々に学問の基礎を築いた田中舘博士の偉業が紹介されている。

研究者への重宝な助手としての平三郎さん

眼視天頂儀の測定部には、星の位置を精密に観測するための目盛りにクモの糸が10数本張られている。平さんはこのクモの糸張り名人として多くの人の知るところとなっているが、この技術は木村先生の伝授にさらに磨きをかけたものといわれている。第2次大戦中水沢ではこのクモの糸が品切れとなり、輸入の途がなかったので平さんはクモさがしの勉強からはじめた。これには相当難儀したが、周辺の山地からとれるクモのマユが使えることを見いだした。

一方では、緯度観測所の数多くの観測機器や施設の修理・調整に多大な貢献をされた。

以上のような功績により、1960年に科学技術長官賞、1967年に吉川英治文化賞を受け、没後1969年9月3日に勲6等光旭日章を授けられた。

池田学級

岩手県・水沢市並びに地域住民との交流において、特に顕著な役割をはたした職員の代表として、第3代所長の池田徹郎氏が挙げられよう。氏は退官後、岩手県公安委員長や水沢市の名誉市民に選ばれている。

記念樹を植える池田所長

創立60周年記念植樹(昭和36年10月1日)
天然記念樹である「しだれかつら」を植える池田所長他。
当時「しだれかつら」は岩手県には20本位しかなく、水沢ではこれが2本目であった。

池田氏は大正11年、第2代所長の川崎俊一氏の時に緯度観測所技師に任ぜられてから、昭和18年に所長事務取扱になり、昭和38年5月に退官されるまで所長を務めた。その間もその後も水沢市に在住した。

数々の業績の他、こよなく草花を愛するとともに教育に熱心で、近隣の地域から採用された職員の教育につとめ、池田学級と称された。卒業した中には石川栄助岩手大学名誉教授等があり、転出して校長先生や会社の社長等になった人々も多い。

気象観測値を公表することにより、地域農業に欠かせない農業気象として役立て、また、長い間天気旗によって天気予報をするなど、地域との交流に思い出深いエピソードを残した。

緯度観測所は地域の著名な施設として、天皇陛下を始め皇族や幾多の著名人の見学の場所となり、その折りには、地域住民総出の歓迎の場所であったことも特記すべきであろう。